何故需要がないのに書くか


明治時代の話か、実話で、文盲の母親が夜なべ仕事をしながら、息子に字を教えてくれと頼んだ。文字も読めず、おそらく仕事ばかりで生涯を終えた無名の女性の存在が強く印象に残った一文。

今、パソコンの普及により、無名の個人が情報を発信できる時代になった。無論、誰からも無視される、読まれることがない情報もあるだろう。

それでも、識字率が上がり、言論統制が少なくなった現代。文盲の母の存在を考えれば、革命的に恵まれた時代ではないのか。

文盲の母親なりに、情報に左右されず、自分の体験から自分の頭で考えて死んでいったことも考慮にいれて、現代人と比べてどちらがより深く考えていたかは、分からないが。

私がパソコンに向う理由。

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

五木氏は「人は皆大河の一滴」と言う。

私は大河に一瞬浮かんで消える泡。その泡が書く文章。はかない。

それでも、泡なりに、私は生きたのだという抵抗かもしれない。はかない泡でありながら、自分は生きたのだという証を記したい、私の我の強さは、働いて、家庭人となる社会適応を難しくしている。