みごとに失敗した人生

単純に、「失敗した人生」を「自らが望んだことが叶わなかった人生」と定義すると。自分の望みの一つ、「愛する人から大切にされたい」「好きな人に愛されたい」は、みごとに叶えられなかった。「この人のいない人生なんて耐えられない」と思いつつ、死ぬこともなく生きてきた。

原因は、人間関係の下手さと、積極的に異性に関わろうとする意志もなかったことだと思う。
それでも過去、「貴方がいないなんて」くらい愛されたこと、二回は、あるかも。しかしそれは、一見、私が男らしい、又は女らしく見える、という誤解からきたものだったと自分は思う。

一見○らしく見えても、内面はそうではないのだから、相手が望むことには応えられなかった。異性とは、自分にないものを求めると思う。例えば、男性が憧れるのは、優しさ、華やかさ、明るさ、可愛らしさでは?そうでなければ、相手が女でなくてもいいし、ホモになるよな。

では自分が「この人の居ない人生なんて」と感じた人とは・・・そんなに、理想が高いわけでも面食いでもないつもり。でも相手にされない。世間受けする男らしさ、女らしさ、に自分が収まりきれないからではないか。自己表現、プレゼンも下手だし。中身もたいしたことないしな。

小学生の頃から、例えると、「クールなパーティに招待される」タイプではなかった。結果自己評価も低くなり、非モテの負のスパイラルに落ち込む人生。まだ、執行猶予はあるから、奇跡的に叶うかも?しかしなぁ、「人は何もしてくれない」「自分の身は自分で守るしかない」と東京に来て益々感じるようになった。

映画のタイトルにあったように、「私が死んだら、誰も私のことなど話さない」し、自分が死んだら荷物は全てゴミ。一つくらい形見にしてくれる肉親はいるけれど。他人に依存しても駄目。「それでも人生にイエスという」のフランクルが主張するように、「人生から何を期待できるか、ではなく、人生からの問いかけに自分がどう応えるか」、つまり、「他人に何が期待できるかではなく、他人にどう積極的に関わるか」が大事だと思うよ。